航空業界の転換点「全日空61便ハイジャック事件」
1999年、日本の空を震撼させた「全日空61便ハイジャック事件」。
なぜ犯人は刃物を持ち込めたのか?
なぜ機長は犠牲にならなければならなかったのか?
犯人が語った「レインボーブリッジの下を潜りたかった」という衝撃の供述と、
事件前に放置されていたセキュリティの穴。
現在のコックピット立ち入り禁止の裏側にある、重すぎる教訓を解説します。
飛行機のコックピットが「聖域」になった日。全日空61便ハイジャック事件の教訓と「ザル」と呼ばれた当時の保安
今では想像もつきませんが、かつての旅客機はもっと「自由」でした。
飛行中でも機長が許可すればコックピットを見学でき、
子供たちが操縦席に座らせてもらえることすらあったのです。
その自由を終わらせ、日本の、そして世界の航空保安を根底から変えてしまったのが、
**1999年7月23日に発生した「全日空61便ハイジャック事件」**です。
単なる凶行として片付けられない、この事件の「恐るべき真実」に迫ります。
1. 確信犯が突いた「ザル警備」の穴
この事件で最も衝撃的だったのは、
犯人の男が**「事前にセキュリティの欠陥を何度も指摘していた」**という事実です。
犯人は重度の航空ファンであり、
「羽田空港の警備は甘い。刃物だって簡単に持ち込める」と、
運輸省(当時)や航空会社に手紙などで再三警告していました。
しかし、その声が真剣に受け止められることはありませんでした。
彼は自身の主張を証明するかのように、
当時有名だった**「手荷物検査をパスして出発ロビーに戻り、別の便に乗り換える」というルートの脆弱性**を突き、実際に複数の刃物を機内へ持ち込んだのです。
当時の航空ファンの反応
「羽田の警備は穴だらけだ」という認識は、
当時の一部ファンの間では公然の秘密のようになっていました。
この事件を機に、
手荷物検査後の動線管理や空港保安は劇的に厳格化されることとなります。
2. コックピットから放り出された副操縦士
事件当日、羽田発新千歳行きの全日空61便(ジャンボ機)が離陸した後、
犯人は刃物で客室乗務員を脅してコックピットに侵入しました。
ここからの展開が、現在の「コックピット施錠義務」に直結します。
犯人は、「自分で操縦したい」という異常な要求を突きつけ、
なんと副操縦士をコックピットの外へと追い出したのです。
操縦席に残されたのは、長島直之機長と犯人の2人だけ。
機長は乗客乗員517人の命を守るため、必死に犯人をなだめ、
説得を続けました。
しかし、操縦桿を奪おうとする犯人に抗った結果、
長島機長は刺殺されるという、この上なく悲劇的な結末を迎えました。
3. 「レインボーブリッジの下をくぐりたかった」
機長を刺殺した後、犯人は実際にジャンボ機の操縦桿を握りました。
犯人の供述によれば、その目的は
**「レインボーブリッジの下を(船のように)くぐりたかった」**という、
フライトシミュレーター感覚の恐ろしいものでした。
巨大なジャンボ機は高度を下げ、東京湾上空を異常低空飛行しました。
横田基地のレーダーがそれを捉え、一時は墜落も危惧される極限状態。
しかし、異変に気づいた副操縦士や非番の乗員たちが、
コックピットへ命がけで突入し、犯人を取り押さえました。
機体は間一髪で立て直されましたが、
もし突入が数分遅れていれば、
東京のど真ん中で未曾有の大惨事が起きていたかもしれません。
4. この事件が変えた「空のルール」
この事件をきっかけに、航空保安は「親切さ」を捨て、
「徹底した安全」へと舵を切りました。
コックピットの絶対的な隔離: 犯人を一人きりにさせない、外部の人間を入れない。現在、飛行中にコックピットのドアが開くことは、厳重な手順を踏む際の一瞬のみです。
ドアの強化: 物理的な突入を防ぐため、防弾・防爆仕様の強固なドアへと改修されました。
保安検査の徹底: 「再三の警告」を無視した結果、機長を失ったという反省から、検査体制は二重三重のチェックへと強化されました。
結びに:長島機長が守ったもの
現在、私たちが飛行機に乗るとき、コックピットの中を覗くことはできません。
それは、自らの命をかけて500人以上の命を守り抜いた
長島機長の犠牲の上に作られた、
**「二度とコックピットを乗っ取らせない」**という誓いの証でもあります。
便利さや楽しさの裏側には、常にこうした過去の教訓が刻まれています。
次に飛行機に乗る際、厳重に閉ざされたコックピットのドアを見かけたら、
その向こう側で守られている「安全」の重みを思い出してみてください。
ちなみに 当時は ジャンボジェットの操縦の仕方というマニュアル本が
売られていました
